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京菓子辞典


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50音別          

ジャンル別 歴史 主菓子 干菓子 菓子器関連 好み菓子

50音別  か  

歴史
飾菓子
かざりがし
糖芸菓子ともいう。美しい姿をした、芸術品かと思われる細工菓子。食べられるものかと目を見張るできばえのもので、花鳥風月、静物などを実物のように写実的に作ってある。
飾り菓子の歴史は、元禄、享保ごろからはじまり、元治、慶応のころには諸大名が京都に上り、献上菓子が多くなってきたため、この細工菓子が好んで使われるようになった。
はじめは有職菓子にも見られる、大型の打物や種菓子などに絵の具で彩色をしていた。

それに金平糖や有平糖が盛合わせられていた。
明治に第三回内国勧業博覧会に京の飾菓子として世に出て、またパリ第二回万博に出品され世界の目にこの技術が知られるに至った。


  菓匠会
かしょうかい
江戸中期に菓子業者が増加してきたので安永4年に上菓子仲間が組織されたが、その後、天災におそわれ、12年ほど仲間制度が中止された。享和3年に上菓子仲間は248戸に幕府から公認を得て制限された。
明治維新後に営業自由が認められ、明治17年に菓子税を課せられるにおよんで、菓子屋が濫造したので、明治19年に同業組合が設立。明治30年京都固有の上菓子によって「菓匠会」が生まれた。
この会は現在でも京菓子発展につくし、年々研究発表を行なっている。


唐菓子
からがし
遣唐使が唐朝から持ち帰ったものの中に「からくだもの」があった。わが国の神饌菓子、和菓子にも今もその風が伝わっている。
唐菓子とは、モチ米やウルチ米または麦をこねあげたり、大豆・小豆に塩を少し入れ、油で揚げたものが多い。『嬉遊笑覧』には、

  古へ菓子は木の実の他には「からくだもの」とて漢土の寒具
  の類を学びて造れるもの種々あり寒食は冬至より百五日を三
  月の節とす即晴明なり、漢土は旧例にて、此日火を焚ざれば、
  前日より種々の菓子を調べ置て食ふなり、あたたかなる食物
  なければこれを寒食といふ、寒具は、その備への食物なり。

と書かれている。寒具は必ずしも菓子類のみではないが、漢名の菓子のように扱われている。
八種の唐菓子は、梅枝(ばいし)・桃枝(とうし)・かっこ・桂心(けいしん)・てんせい・ひちら・ついし・団喜(だんき)である。皆うるの粉に甘葛(あまずら)などの甘い味を加えつくね油あげにする。
他に、ぶと・まがり・結果(かくなわ)・捻頭(むきかた)・粉熟(ふずく)・索餅(さくへい)・こんとん・へいたん・ほうとん・魚形(ぎょけい)・椿餅(つばいもち)・へいこう・こめ・煎餅(いりもち)の十四種がある。
これは平安朝のはじめまでに輸入したものであった。
この中には、今の州浜によく似ているものなどがある。
その他にも、唐菓子は、日本の菓子に大きな影響を及ぼし、朝廷の儀式や饗宴の際に使われた記録が残っている。


  嘉祥菓子
かしょうがし
嘉定ともいう。嘉定通宝十六文で食物(主に菓子)を買って食べると、その家に福があり、疫病を除くといわれる”嘉祥食の行事”というのがあり、室町時代末期から江戸時代を通じて、毎年6月16日に行われていた。
(仁明天皇が承和15年6月16日を吉日として嘉祥という年号に改元した。その際、供物を以って祭を行い、悪疫を祓うにはじまるという故事にちなんで嘉定通宝が鋳造されたのである)
宮中では7種、幕府では16種の菓子を用い、民間でも金十六文や米一升六合で物を買って食べたようである。古くは団子餅、穀物類をいづれも十六種使ったが、時代につれて変化し菓子となった。
使われた菓子は古風なものが多く幕府では、饅頭、羊羹、鶉餅、志んこ、あこや、よりみづ、金団、いただき、白団子、干麩、熨火餅などに各桧葉を敷いてその上に菓子が盛られた。
虎屋の記録によると宮中では、公卿へ納める品は駿河半紙に包み水引け、一般は紙包のまま売ったとある。
明治の頃には素土器皿に桧葉を敷き七種菓子をのせ、大奉書で菱形に包み、紅白の水引をかけたものであった。

 一、いかもち・・・米の粉の団子皮で濾餡を包み、饅頭型に作り上部へ黄色い糯米の染飯を散らし蒸しあげたもの。

 一、桔梗餅・・・桔梗は、秋の七草の一つで、枝上に紫碧色をした鐘形の五裂の鮮麗な花が咲く。餅菓子の桔梗型をしたもので、こし餡を包んだ季節菓子である。六月の嘉祥菓子に入る。

 一、豊岡の里・・・落雁製の淡紅色で方形をしており、上部を少し盛り上げた型の餡入りである。

 一、武蔵野・・・湿粉と蒸羊羹でできており、武蔵野の秋の景色をあらわしている。

 一、源氏まぜ・・・湿粉製幡形で平家、源氏の幡を図案化して作ったものである。

 一、浅路飴・・・柔らかい白求肥を小さく拍子木型に切り、白胡麻の煎ったもので全部をまぶしたもの。

 一、味噌松風・・・薄く長方形に切ったもので、両面を鉄板で唐板のように焼いたものである。


  供饌菓子
ぐせんかし
神仏混淆の思想が盛んだった江戸時代には、お供えも共通したものが多かったが、明治以降神社と仏閣が分離してからは、お供えも独自のものに変化していった。
仏教伝来(552)とともに、いろいろ形どった供菓子類が多く伝わり、現在でも百種類ほどある。
各宗派ともに、大祭・大法要・御忌など重大な儀式には、豪華な供饌を供えた。


  華束
けそく
仏前に菓果を献ずる器具の一つであるが、華足や華飾ともいって、後には供物もケソクと言うようになった。仏壇に供える餅を「おけそくさん」という人もいる。


  献上菓子
けんじょうかし
→ 上菓子

  祇園祭
ぎおんまつり
京都の夏の風物詩。

  京菓子
きょうがし
京菓子には目に美しいという感じをさせる「飾菓子」と風味に重点をおく「茶菓子」がある。
茶の菓子は、家元が京都にいる関係で、四百年来茶の湯とともにはぐくまれた。茶菓子が生まれた当初は主菓子と干菓子の区別がなくどれも点心などと呼ばれ、焼き栗、干柿、昆布などがその役目を果たしていた。
一般的に現在のような菓子になってきたのは明治以降のことで、茶の湯によって四季折々の自然の美しさを映して、十二ヶ月の季節の銘も整えられ、ますます洗練された。季語や年中行事に因んだ数多い茶菓子は、歳時記にして見ても興味深いものである。


  きんとん
きんとんは茶菓子の姿を一番よくあらわしている。
花ならば花がズバリその形になりきっていてはいけない茶菓子にあって、きんとんは、ぼんやりとした形で四季の風情が表現できる菓子なのである。
きんとんは、平安朝前期に中国から留学僧が土産として持ち帰った唐菓子の中の果餅十四種の「こんとん(食+昆)飩」に似たものである。
「こんとん」は小麦粉を練って丸め、中に砂糖、飴などを入れ、温めて食べるので「温飩」ともいわれる。日本では「金団」の名が見られる。
「きんとんは、栗の餅の粉にて作る、色黄なるゆえに金団というなり」(橘飩の転化とも言われる)
「またすいとんとも云ふ夏は水にひたすゆえなり」と信長の古茶会記にも使われている。
大徳寺きんとんの名はもっとも古いが、禅僧が留学の手覚えで作り出したもので「槐記」に温めて出すと書いてある。これは「貞丈雑記」には「一、きんとんと云ふは粟の粉にてちひさく団子のようにしてその中へ砂糖をいれたるなり」とあって現在のものでなく団子であった。
はじめは甘葛で味をつけ、形も径2cmほどの大きさとある。宝暦にも粟の代りにもち粉と粳粉を糖蜜で練り、梔子(くちなし)で黄色に染めたものや、また内に餡を包み、丸くして小角豆の粉をつけるといってやはり黄金色の金団である。
文政のころに紫きんとんというのができた。これは求肥を切って餡で包み、その上に上餡の裏ごししたそぼろをつけていた。
きんとんは生ものであるから客に味よく差し出すためにはタイミングが必要である。毎月の主菓子にきんとんの姿を見ないときはない。古くから多くの好み菓子も生まれて、親しまれた茶菓子である。


  金平糖
こんぺいとう
幕末のころから明治末期にかけて、南蛮菓子が全盛時代であった。金平糖は永く貯蔵ができ「振出し」など、春の野点にふさわしく美しい菓子である。
金平糖の語源はイスパニア語のコンフェイトス(Confeitos)である。
最初に伝来したのは、南蛮菓子の一つとして紅毛人より長崎に伝えられた時であり、コンペイトウの日本名も金平糖、金米糖、金餅糖、渾平糖、糖花などといっている。
永禄十二(1569)年に二条城に金平糖が渡来している。
また、京都相国寺鹿苑院の鳳林承章の日記にも寛永二十(1643)年四月十三日の条に、肥後国から上洛した人がみやげとして肥後の焼物の中にコンペイトウを入れて贈ったと伝えられている。西の方からしだいに東に移り、元禄の頃には大阪でも作られている。
井原西鶴が貞享五(1688)年に、『日本永代蔵』の「廻り遠きは時計細工」の項に金平糖をつくって金を儲けた話を取り扱っている。
ケシの種が芯となっていて、その実をセンターにして砂糖蜜をふりかけるのであるが、その操作は、たらいのような平底の大きい(つのかけ釜ともいう)を適度の傾斜にささえて回転させ、
下から絶えず加熱しながらその中にセンターを入れ砂糖蜜をふりかけ、乾燥するときの凝固力を上手に利用しているのである。
ただし、釜の傾斜が悪かったり、回転がはやすぎたり遅すぎたりすると、角がうまくでず、単なる丸い砂糖団子になるおそれがある。難しい菓子なのである。


主菓子 此花
このはな
梅の花の異名を此花という。中は小豆餡を丸め、外は紅白のきんとんを染分けに着せて、紅梅白梅の美しさを見せている。
嘉永三(1850)年十月に裏千家十一代 玄々斎が好み、咲分(さきわけ)と銘された。同様のきんとんで黄色餡入りのものもある。


  懸想文
けそうぶみ
『伊勢物語』に「昔、男ありけり けそうしける女の許に」とあるように、懸想とは恋うること、恋慕することをいう。つまり懸想文とは恋文のことである。
懸想文の風習は延宝の昔からあったもので、烏帽子に水干を着て袴に草鞋を履き、胸や背、袖に松竹の付け物をして守袋をかけ、梅の枝を持ち、その枝に懸想文を吊るして売り歩いた。それを貰った人は箪笥に入れると衣服がふえ、美人になるという迷信があった。
この文をこなし餡でつくり、玉子餡で結んだ菓子である。


  こぼれ梅
こぼれうめ
(主菓子) 紅梅の花が一輪、二輪こぼれる風情を出した、こなし製の菓子で、紅色の表面にちらりほらりと梅花の型がつけてある。

(干菓子) 寒梅粉の打物で、梅花の裏面あり表面ありと、とりどりの花が紅白の梅に作られ、こぼれ梅を連想するような美しいものである。


  草餅
くさもち
雛の節句は、ひとつには草餅の節句ともいっている。草餅は昔は母子草をつき混ぜたという。中国の『けいそ歳時記』に、
三月三日鼠麹草(ははこぐさ)の汁をとり蜜を合わせて粉に和す
とある。日本に伝わったのは9世紀の頃らしい。鼠麹を和名でホウコと呼んで、女子の祝いに母子の健全を祈る意味に通わせたものという。
後に、母子をおなじ臼につくことを忌むという思想が起こり、艾(モグサ、今の蓬)を主用することになる。
ハハコグサ、モグサもともに薬草であり、これを餅につき混ぜるのは邪気をはらい、疫病を除くという意味で、節句以外にも季節の風味で一般に作られるようになっていった。
ハハコグサも俗にモチヨモギと称して併用する地方が残っている。
製法には、糯米を粒のまま蒸すのと、粉にしたものをこねて蒸すのとの二法がある。
蓬は別にゆでて細かく刻んだものをつき混ぜて、形を整えるためにウルチ粉を併用する場合もある。
江戸では昔から多く、青粉を用いて色をつけたという。
現在では乾燥貯蔵した蓬葉があって年間を通じて利用されるが、香味ともに青々とした生葉には及ばない。


  曲水
きょくすい
曲水の宴とは、昔、三月三日に宮廷や貴族のあいだで行われた風流な遊びで、宮中の行事の中でも特に風雅なものであった。
龍泉の庭を流れる清流におしどりの形をした「うちょう」を浮かべてそれに杯をのせて流し、自分の前に流れつくまでに、歌をよんで酒杯をとり、また次に流すといった、のどかな王朝の遊びである。
曲水の宴がこの日にはられるのは、身のけがれを雛人形にたずさせて流す中国の故事によるものである。
『日本書紀』や藤原時代の記録に見られる。
薯蕷羹の流し物で、中央に青色の羊羹をはさんで春の小川をあらわしている。


  唐衣
からごろも
柏餅の名は古くからあるが、節句には粽が用いられ、柏餅が季節のものとなったのは、江戸寛文(1661年)の頃らしい。
上代から柏の葉が食器がわりに使われていた名残りが、餅を包んで柏餅となったもので、柏餅は粳米の粉を団子に練ってよく搗き、楕円形の扁平にした中に漉餡か味噌をはさんで編笠に作り、柏葉一枚を二つ折りにして包んだものを蒸して出す。
今日では、柏餅は季節になると全国どこでも見受けられるが、桜餅のように名物という肩書きはない。
江戸末期の浮世絵師歌川広重が東海道五十三次を描いた中に猿ヶ馬場の柏餅がある。
新潟県佐渡島の海府ではカシワの葉でちまきのように巻いた餡入りの菓子を五月の供物としているが、地方によっては柏餅をお盆の供物としているところも多い。
たとえば鹿児島の沖永良部島ではモロコシを原料とする柏餅が七月の精霊祭に必需の供物とされている。
長崎の壱岐島でも、アカメガシワの葉で包んだだんごを「かしわだんご」や「みやけだんご」などといって送盆の精霊舟に積み込んで流す風習がある。ここでは小枝についたままの葉に包んだちまきに少し似たものである。
山口の児島では、五月節供には粽だけで柏餅は使わない。
盆の十五日に赤飯を柏の葉に盛って供える。柏の葉が古来食物を盛るのに使われた事実から見て、盆の精霊に供える食饌を柏の葉に盛ることは自然であって五月の節供にも適用されたのであろう。
京阪地方では男子出産の初の端午の節句に粽をくばり、二年目には柏餅を送るのであるが、江戸では初午より柏餅をくばっていたらしい。
嘉永以後からは、柏の葉一枚を二つ折りにする場合、餡入りには葉の表を使い、味噌入りには葉の裏を使って標とするようになった。
葉は乾かして貯えた葉を湯に通して戻し、これで餅を挟んで蒸し、その香りを賞味するのである。新葉を蒸して作るものもあるが色彩ばかりで香りがない。
味噌を使うことは昔の調味法の遺風で、その素朴な味は餅とよく調和する。珠光餅などもその一例である。砂糖が一般に使われるようになって、白味噌に砂糖を加えてやや柔らかめに造り、好みによって粉山椒を少々混ぜたり、また白餡を少量加えることもある。


 

河骨
こうぼね

 

  梶の葉
かじのは
 

  葛焼
くずやき
吉野葛に餡粉と砂糖を合わせて煮き、無造作に鍋で杓子切りとしたものを鉄板で押さえ、両面に焼目をつけた茶味あるもの。
武者小路千家七代 直斎好。


  木の間の瀧
このまのたき


  琥珀
こはく
 

  こぼれ紅
こぼれべに
 

  小萩餅
こはぎもち
秋の七草の一つで、はぎの生え芽の意味だそうで、旧い株から新芽が萌え出すので、こういわれ、昔から秋を代表する草で草冠に秋という字を書いて「はぎ」とよませた。
緑色の餅菓子に萩の花の美しい色が可愛く見える。


  桔梗餅
ききょうもち
桔梗は、秋の七草の一つで、枝上に紫碧色をした鐘形の五裂の鮮麗な花が咲く。
餅菓子の桔梗型をしたもので、こし餡を包んだ季節菓子である。
六月の嘉祥菓子に入る。


  小芋
こいも
芋名月とは、陰暦八月十五夜の月を観賞するのに里芋の子の皮をつけたままで蒸した衣被(きぬかつぎ)を三宝に盛って供えるところからきているようである。
これにちなんで、こし餡をこなしで包んで小芋に似せたもので、ところどころに子がついて愛嬌があり、中秋の月に寄せる菓子にふさわしい。


 
きぬた
砧とは、麻、楮(こうぞ)、葛などの衣服用の布地を柔らかくするために板の上に置いて木槌で打つことである。
昔から秋の夜にその音は寂しさを誘い、詩歌にも詠まれている。
白求肥製で、紅餡を巻き込んだ口当たりのよい菓子である。


  がらん餅
がらんもち
餅菓子。
がらんとは伽藍で、僧園または精舎で僧が集まり住んで仏道を修するところである。
この菓子はその伽藍石、いわゆる礎石をかたちどったものである。
法事、仏事などに使用されることが多い。


  月羹
げつかん
棹物。
白小豆の羊羹を丸い棒状にして小豆餡の羊羹で外部を丸く包み、小口切りとする。
文化、文政ごろの菓子である。
裏千家十代 柏叟好。


  桂の月
かつらのつき
月を詠んだ詩歌俳句はもちろんのこと、画題にも沢山あり、俳句などで月といえば、秋のそれを指している。水面にその光が映るのを喜ばれる。
餅皮を半月に折り、桂川の月に見立てている。

水一筋 月よりうつす桂川    蕪村


  着せ綿
きせわた
赤・青・黄の三色のこなし餡を染分けにして茶巾しぼりにし、小倉餡を包む。
裏千家十三代 圓能斎好。


  銀杏餅
ぎんなんもち
道明寺餅の中に銀杏を散らし入れ、楕円に作る。砂糖の調味である。餡なし。
裏千家の露地に生えている、宗旦手植えの公孫樹(いちょう)の実を応用して、裏千家十一代 玄々斎が好んだもの。
もう一つ、道明寺餅ではなく、白の求肥餅の中に元伯手植えの鴨脚樹木(いちょう)の実を散らし込んだ銀杏餅というのもある。餡は小豆の漉したもので、こちらは裏千家十四代 淡々斎好。
今日庵では宗旦忌にこの淡々斎好みの銀杏餅を出すのが恒例である。


  栗かの子
くりかのこ


  木の間の錦
このまのにしき


  木枯し
こがらし


  風花
かざはな


  試み餅
こころみもち


  寒菊
かんぎく
 

  寒牡丹
かんぼたん
薄紅色の落雁製で、中に黄餡を入れて、平形の押物のように作られている。
裏千家十一代 玄々斎好。
徳川末期の文政頃から明治初期の好みである。


  顔見世
かおみせ
 

  寒椿
かんつばき
 

  加茂の山
かものやま
白餡入りで、外部は小豆餡のきんとん作りで少し平たい。
弘化五(1852)年三月に裏千家十代 柏叟が好まれたもの。


  寒月
かんつき
蒸羊羹の中心に丸く白外郎を入れる。棹物に作り、小口切りとして使用する。
嘉永二(1849)年十月に裏千家十一代 玄々斎が好まれたもの。
六閑斎好みとも伝えられる。


干菓子 唐松
からまつ
若緑色の唐松を表した打物で、美しいさえた色の丸型のものである。


  切山椒
きりさんしょ
江戸時代には正月にこれを売り出した。
小堀遠州の好みともいわれるが、下町の江戸っ子に親しまれた菓子で、山椒のはいった焦茶色のしん粉。
一センチほどの拍子木形に切ってある山椒の風味のある季節菓子である。


  亀甲鶴
きっこうつる
亀甲型の打物であるが、内にいろいろの型をかえた立鶴が浮き出されている。


  霞三盆
あられさんぼん
玉霰の美林のように、和三盆を小粒にして霰様に仕上げたもの。


  こぼれ梅
こぼれうめ
(主菓子 )紅梅の花が一輪、二輪こぼれる風情を出した、こなし製の菓子で、紅色の表面にちらりほらりと梅花の型がつけてある。

(干菓子) 寒梅粉の打物で、梅花の裏面あり表面ありと、とりどりの花が紅白の梅に作られ、こぼれ梅を連想するような美しいものである。


  枯松葉
かれまつば
茶褐色の松葉を有平糖で作る。緑の松葉と違った趣で、茶席に適した味わいがある。
同じ材料でも、店によっていろいろの形がある。


  貝尽し
かいづくし
桜貝、帆立貝など、いろいろな貝の形を写した小さい可愛らしい干菓子で、雛の節句や潮干狩りなどの取り合わせに面白い。


 
くつわ


 
かに


  渓流
けいりゅう


  蜻蛉
かげろう


  かえで


 
あし


観世水
かんぜみず
白有平で水の形に作る。なるべく細かく作るのがよい。
裏千家十一代 玄々斎好。


  琥珀糖
こはくとう
琥白糖。寒天と砂糖に水飴を加えて練り上げる。錦玉ともいう。
裏千家十一代 玄々斎好。
精中好みの中にもある。


  錦玉
きんぎょく
→ 琥珀糖

 
かもめ


  雲の峯
くものみね
 

  糸巻
いとまき
 

  桐一葉
きりいちよう


  小芋
こいも
(主菓子) 芋名月とは、陰暦八月十五夜の月を観賞するのに里芋の子の皮をつけたままで蒸した衣被(きぬかつぎ)を三宝に盛って供えるところからきているようである。
これにちなんで、こし餡をこなしで包んで小芋に似せたもので、ところどころに子がついて愛嬌があり、中秋の月に寄せる菓子にふさわしい。


  雁来紅
がんらいこう
 

  栗の穂
くりのほ
 

  小菊
こぎく
 

  菊の葉
きくのは
 

  通い路
かよいぢ


  光琳菊
こうりんぎく
 

  菊水
きくすい
 

  小菊
こぎく
 

  熊笹
くまざさ
 

  好月
こうげつ
少し変わった干菓子で、白餅粉煎餅で茶色の霞が入れてあり、大きさが十五センチもある大型のものと記録され、嘉永四(1851)年ころのものである


  吉祥
きっしょう
二色の白雪(はくせっ)こうで、一方は肉桂入りで白胡麻を、一方には黒胡麻を散らしてあり、適当に割って出す。


菓子器関連
菓子器
かしき
茶に使用する菓子器は、形も色彩も雅趣に富んだ、見るからに好い感じのする器である。
菓子器としては、利休以来各宗家のお好みになる器のほか、唐物のその他の器も使用する。
大別すると、縁高重・鉢形・盆形であり、形は大小種々で、種類もかなり多くある。
あまり細工に過ぎたもの、また美術品は不調和なので、お祝いごと以外には好みとしては数も少ない。
菓子器も取合わせが第一で、色彩と形はその中に盛る菓子との調和を十分考えて使用するのが必要で、どんな良い菓子でも、器との配色が悪いと、器も菓子もともに引き立たないことになってしまう。
季節の使い分けが大切である。
茶には割合、菓子皿を使用することが少なく、好み物もない。
これは、使用できないというのではなく、唐物・国焼など、品格のある皿を使用するのも、取合わせとしては、亭主の力量といえる。
菓子器には次の種類がある。
主菓子用
一 菓子椀
一 縁高
一 銘々皿
一 食籠(じきろ)
一 菓子鉢
干菓子用(惣菓子器)
一 高杯(たかつき)
一 平盆
一 堆朱・堆黒
一 盆
一 振出し

好みの菓子器としては以下のものがある。
利休好
宗旦好

<裏千家>
仙叟好 黒縁高・溜縁高・七宝透縁高・黒角丸縁高・中円鉋目菓子盆・松鶴蒔絵菓子椀

常叟好 猿尻菓子椀・根来写独楽盆・中丸銘々盆

六閑斎好 六角縁高・六角台足付・楽金溜手付・菊菓子器
竺叟好 一閑内朱四方盆

一燈好 白楽六角・杉木地錫縁四方盆・菱盆

不見斎好 雑木盆

認得斎好 五色独楽盆

玄々斎好 福寿食籠・松唐草食籠・輪花盆・糸巻銘々盆・野々宮菓子器・ツボツボ松葉絵雑木盆・菱盆・桐角上盆・菓撰盆・瓢菓子器・四方盆

円能斎好 一閑縁低菓子器・白石籠・美寿美盆・箕・渦模様独楽盆

淡々斎好 松皮菱透縁高・桐唐草縁高・捻梅盆・八紘盆・雪花盆・七宝糸巻盆・内朱輪花盆・叩塗若狭盆・竹ツボツボ・半開扇盆・独楽高杯・朱亀甲盆・宝珠盆・銀平目八角盆・桐四方盆・花鳥蒔絵朱縁高

鵬雲斎好 四季七宝蒔絵盆・青貝四方盆


<表千家>
覚々斎好 桜盆(小)・神折敷菓子器(内朱)・黒溜四方銘々盆・操貫盆・朱網絵食籠

了々斎好 カラト面朱二重八角食籠・朱打合せ盆・一閑独楽菓子器
吸江斎好 黒折タメ独楽菓子器・春慶塗雪花四方盆

碌々斎好 一閑網絵縁高・一閑洗朱縁高・一閑扇形縁高(黒爪紅)・一閑小丸食籠・一閑折タメ四方小食籠・一閑独楽菓子器(青漆爪紅)・摺漆独楽菓子器・桜盆(大)・大菱盆・一閑折タメ四方食籠・ミル貝食籠・グリ溜食籠・打合せ銘々盆・桜銘々盆

惺斎好 一閑桃食籠(金蒔絵、外黒、内朱)・紅葉張込八角食籠(外溜、内黒)・青漆丸食籠(青漆、内黒、切面朱)・西芳寺紅葉張込丸食籠・捻梅菓子器(木彫、外黒、内朱)・住吉神器模菓子器(朱、住吉神社松葉張込)・一閑朱ヘギ目四方盆
  紅葉張桜盆(黒)・唐物模菱盆(黒、鏡朱)・溜糸目八角食籠(内銀ヤスリコ塗ミル貝蒔絵)・鶴菱食籠・利休形御菓子椀台(菩提樹の実張込)・青貝雪花四方盆・青貝蝶唐草四方盆・雛用菓子器(外黒、内金箔押)・鎌倉彫食籠・萩木瓜形食籠・薩摩木瓜形食籠

即中斎好 一閑朱捻梅食籠・一閑縁朱丸盆・溜ロクロ目食籠(内熊笹蒔絵)・折タメ丸食籠(外朱、内黒、甲内丸青漆、面黄)・縁高(黒爪紅)・網絵大丸食籠(黒網絵、溜、内黒挽物)・網絵大丸食籠(朱網絵、溜、内黒挽物)・青漆八角菓子盆(面黄)
  菊蒔絵八角菓子器(錆塗銀縁)・丸独楽つなぎ菓子盆(黒挽物、金蒔絵)・溜五角銘々菓子器・桜食籠(折タメ)・芽張柳縁高・芽張柳丸食籠・白竹張四方盆・色漆糸目独楽菓子器

<石州流>
石州好 糸目銘々盆(挽物、総朱塗)・春慶塗糸目銘々盆(裏黒塗)・蘭の絵銘々盆(総うるみ塗、朱蘭の絵)・角桐の絵銘々盆(総朱塗、一文字桐の絵)・土器形菊銘々盆(黒塗、高蒔絵)・惣菓子器(朱塗、黒漆絵角にしのぶの絵)・糸目惣菓子器(内外朱塗)
糸巻引重(黒塗蓋付、黒塗、朱しのぶの絵)・惣菓子器(きぬた粉黒塗、朱しのぶの絵)・御好花形菓子盆(総朱塗、裏黒塗)・菊盆・鉄鉢形惣菓子盆


  菓子椀
かしわん
朱塗・縁金のやや低い椀で、口切りの茶事とか菓子茶事(飯後の茶事)など、正式の茶事以外には最近はあまり用いない。これは主菓子を容れる銘々菓子器である。


  菓子鉢
かしばち
一般的に使われる盛込鉢である。この場合、主菓子を客の数だけ盛り込んで出す。
 唐物・和物両様あり、唐物では天竜寺青磁・七官青磁の端反鉢(はたぞりばち)や、桝形鉢・輪花鉢・平鉢などがあり、色彩の温雅さが賞美される。
 染付では兜鉢(かぶとばち)や芙蓉手(ふようで)など、模様の変化は多く、祥瑞(しょんずい)も腰捻・四方・その他、名品が少なくない。色絵なども呉須赤絵が一番多く、蓮鷺・珠取獅子・魁鉢などがある。
 朝鮮では雲鶴青磁を初め、御本刷目(ごほんはけめ)・粉引(こひき)・三島・井戸脇などがある。
 和物では仁清は少ないが、乾山には秋草や草花の透鉢(すかしばち)が代表的で、それを写した仁阿弥は乾山写しの桜と楓を描いた雲錦鉢・雪笹の手鉢があり、保全その他、京名工の作ったものもある。
 その他、黄瀬戸あやめ手鉦鉢(どらばち)・織部・古九谷・古伊万里・唐津・萩などの国焼物が豊富である。夏の極暑の時季には、ギヤマンの切子鉢(きりこばち)なども涼感を呼ぶので、よく用いられる。

■ 菓子鉢の扱い方
菓子鉢には、一種の菓子を一人一個あて、客数だけ盛り、黒もじの箸を用いる。菓子鉢を出されると、正客はこれを受けて、右手上座のほうにあずかっておく。亭主から「どうぞお菓子を」と挨拶があり、正客は一礼してこれを受け、
次客に「お先に」と一礼をして、両手で菓子鉢を持ち、おしいただいて(この時、菓子鉢は高く持ち上げずに、からだを低くする)菓子鉢を縁外に置き、懐紙を出し、縁内膝前に、わさを手前にして置き、菓子鉢に左手を添えて、箸で菓子を懐紙に取る。
菓子を取ったら、箸を上から持ちなおし、懐紙の上の角を折って、箸先を挟み、清める。箸を懐紙の上に置いたまま、菓子鉢を拝見するが、中の菓子が乱れないように、静かに菓子鉢を拝見する。拝見が終わったら、箸を菓子鉢の上にのせ元にもどし、次客に送る。次客以下も同様である。


  黒もじ
くろもじ
菓子に添えて出す楊枝で、黒もじの木の枝で作る。長さ六寸(約18.2cm)、上部は巾二分五厘(7mm)、中ほどは二分(6mm)くらい、先のほうは五厘(1.5mm)。縁高に添えて出す時には、一人に一本ずつ出す。昔は亭主みずからが黒もじの枝を削って作ったものである。
 黒もじの木は楠科の落葉灌木で、高さ2mあまり、樹皮は緑を帯びた黒色で、黒い斑がある。葉は長楕円形、雌雄の木が別々になっている。春、葉が生える前に淡黄色の花が咲く。果実は小球形で、黒い木に香気がある。鉤樟・鳥樟などの異名あり。
  この黒もじの葉や小枝を蒸溜すると、油が採れる。芳香のある黄色の油で、香水・石鹸・化粧品などの香料にする。黒もじの他に、白もじ、青もじなどがある。樹皮が黒もじに比べて白味、青味が勝っている。近似種には、毛黒もじの木がある。
 使い方としては、黒もじはあらかじめ水につけておき、菓子器に添える直前に軽く拭き清めて添える。これは清浄さを見せるためである。客を迎える時は、そのたびに新しいものを使う。使ったあとの黒もじは、持ち帰る。
 二本で箸として使う場合は、七寸(約21.2cm)か八寸(24.2cm)の長さのものがあり、菓子鉢の大小によって釣合いのよい方を使う。あらかじめ湿しておく。客は右手で箸を上から取り、左手で下から受けて、右手で持ちかえて菓子を取る。
  この時、黒もじの皮の部分以外は持たないようにすること。


好み菓子 好み菓子
このみがし
菓が始まり、いろいろなものが作られるようになってきた寛政ぐらいから、徐々に「好み菓子」といわれるものがでてきた。
菓子の好みという言葉は、利休の頃にはなかったようである。
好みという多くの菓子は、茶の流行とともに作られた。
藩政時代、御用菓子司が城に納めるだけこれらを作った。
不昧候・遠州候の大名好みも、詳しい記録は少なく、その型も確かなものはあまり残っていない。
享保(1716年)~明和(1772年)のころにかけては、菓子も多くできたが、好みとしては初期のころであった。
安永(1772年)~文政(1830年)ころに、好み菓子は数多くでき始めた。
特に嘉永(1848年)~安政(1860年)ころ非常に好みが多い。
好みものとされなかったころの茶菓子には、 藤袴、 珠光餅、 ほらがい餅、 友白髪、 筑羽根、 人参糖、 竹ながし、 好月などがある。
宗家の好み菓子もあまり記録に残っていない。
玄 々斎好みの銀杏餅・百合金団も手造りが主であったようだ。
明治以後は少し好みが少なくなってくる。
一時は業者まかせのものもある。
『千家好菓子集』の覚書から、茶事の時、業者の作った菓子をも含め、好みとされたものを以下に記しておく。
一 裏千家
一 表千家
一 武者小路
一 藪内流
一 堀内流
一 宗偏流


参考文献:『茶菓子の話』(淡交社)、『カラー 京都の菓子』(淡交社)。すべて鈴木宗康先生著



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